黒田官兵衛と播磨

播磨から観る黒田官兵衛とは
第8回 息子の命を救った竹中半兵衛
御着城石碑

御着城石碑

黒田官兵衛顕彰碑と目薬の木(碑右の小さな木)

黒田官兵衛顕彰碑と目薬の木(碑右の小さな木)

官兵衛が有岡城に幽閉されたとき、織田信長は官兵衛が裏切ったとして激怒し、人質に出していた松寿丸(後の黒田長政)を殺すよう命じた。そのとき、竹中半兵衛は「官兵衛は裏切るような人間ではない」と、ひそかに松寿丸を自分の領地でかくまった。半兵衛は、天正7(1579)年、三木城攻めの陣中で病死するが、その後も官兵衛、長政はその恩を忘れず、半兵衛の嫡子重門の二男重次を家臣として召し抱えたという。有岡城、御着(ごちゃく)城、三木城、そして英賀(あが)城を次々と攻め落とした秀吉は、天正8(1580)年、播磨を平定。官兵衛の勧めで姫路に三層の天守を建て始めるとともに、官兵衛にはその功を称え、揖東(いっとう)郡1万石を与えた。そして、いよいよ毛利攻めに着手することになる。