官兵衛とは ゆかりの沿線スポット コラム 黒田官兵衛と播磨

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最終回 官兵衛の最期

豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康と石田三成が天下をめぐり争いが持ち上がる。大きな戦が起こると考えた官兵衛は、息子・長政が留守で手薄な中津に人を集め始める。慶長5(1600)年9月9日にこの寄せ集めの軍勢で出陣すると、あっという間に北九州を制圧。しかし、9月15日に関ヶ原の戦いが1日で決着すると、官兵衛はあっさりと兵をひき家康に服従する。このときの官兵衛の行動は、家康と三成の争いの混乱の中、天下を狙ったとも所領の拡大のためともいわれるがはっきりしない。長政に筑前52万石が与えられると、官兵衛は筑前(福岡県)に移り住み余生を過ごした。慶長8(1603)年、病気療養のため有馬温泉へ、その後伏見の藩邸へ移るが、病状が悪化し、翌年没する。葬儀は簡素に行うよう、また殉死を固く禁じたという。