黒田官兵衛と播磨

播磨から観る黒田官兵衛とは

黒田官兵衛が生まれ育ったのが、播磨国の姫路。 当時は黒田家が仕えた小寺政職、赤松政秀といった戦国大名が群雄割拠していました。
「姫路城」「廣峯神社」「黒田家廟所」「書写山圓教寺」「青山古戦場跡」「国府山城址」など、官兵衛が若き日を過ごしたゆかりの地を交えながら官兵衛についてお話します。

最終回 官兵衛の最期
豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康と石田三成が天下をめぐり争いが持ち上がる。大きな戦が起こると考えた官兵衛は、息子・長政が留守で手薄な中津に人を集め始める。慶長5(1600)年9月9日にこの寄せ集めの軍勢で出陣すると、あっという間に北九州を制圧。しかし、9月15日に関ヶ原の戦いが1日で決着すると、官兵衛はあっさりと兵をひき家康に服従する。このときの官兵衛の行動は、家康と三成の争いの混乱の中、天下を狙ったとも所領の拡大のためともいわれるがはっきりしない。長政に筑前52万石が与えられると、官兵衛は筑前(福岡県)に移り住み余生を過ごした。慶長8(1603)年、病気療養のため有馬温泉へ、その後伏見の藩邸へ移るが、病状が悪化し、翌年没する。葬儀は簡素に行うよう、また殉死を固く禁じたという。
第11回 秀吉の天下統一
山崎の戦いの後、羽柴秀吉はその後も柴田勝家との戦いに勝ち、天下統一の道へと突き進む。官兵衛は四国攻め、九州攻めと活躍。天正13(1585)年、秀吉は関白となり、この年、姫路を守っていた父・職隆が国府山城で死去。天正15(1587)年、官兵衛は豊前国12万石を賜り、九州入りをする。功績の割に恩賞が少なかったのは、秀吉が「次の天下人」になることを恐れたからだと伝えられている。官兵衛は秀吉に警戒されていることを知ると、出世欲がないことを示すために出家・隠居したという。
第10回 キリシタン大名・黒田官兵衛
姫路城・にの門櫓西面

姫路城・にの門櫓西面

十字紋の鬼瓦

十字紋の鬼瓦

日本にキリスト教が伝来したのは天文18(1549)年のこと。南蛮文化に興味を示した織田信長が庇護したため、キリスト教徒は次第に増加する。官兵衛もキリシタン大名として名高い高山右近に勧められて、洗礼を受ける。天正11(1583)年ごろのことで、洗礼名はドン・シメオンだった。その後、豊臣秀吉がバテレン追放令を出した際に棄教するが、領地における保護は続けたため、徳川家康政権時の九州ではさかんに布教活動が行われたといわれる。姫路城・にの門櫓西面の十字紋の鬼瓦は、官兵衛ゆかりのものとの説もある。
第9回 中国大返し
本能寺

本能寺

本能寺跡

本能寺跡

播磨を平定した羽柴秀吉は、1582(天正10)年、中国地方へと出発した。攻めるは備中・高松城(岡山県)。しかし、この城は「中国一の名城」であり、容易に攻め落とすことができなかったため、官兵衛の進言により、石を積んだ船を沈めて川をせき止め、水攻めにした。この水攻めの最中、本能寺(京都府)で織田信長が明智光秀に討たれるという事件が起こる。官兵衛は秀吉に「光秀を討った者こそ、次の天下にいちばん近い者となるでしょう」と進言。200㎞の道のりを7日で駆け抜け、山崎の戦いで光秀を撃破する。これが世にいう「中国大返し」である。秀吉は、この官兵衛の進言による行動で天下統一への足掛かりをつかむのだった。

7月13日(日)に放送された大河ドラマの「官兵衛紀行」コーナーでゆかりの地として紹介されました。

  • 本能寺
  • 本能寺跡
第8回 息子の命を救った竹中半兵衛
御着城石碑

御着城石碑

黒田官兵衛顕彰碑と目薬の木(碑右の小さな木)

黒田官兵衛顕彰碑と目薬の木(碑右の小さな木)

官兵衛が有岡城に幽閉されたとき、織田信長は官兵衛が裏切ったとして激怒し、人質に出していた松寿丸(後の黒田長政)を殺すよう命じた。そのとき、竹中半兵衛は「官兵衛は裏切るような人間ではない」と、ひそかに松寿丸を自分の領地でかくまった。半兵衛は、天正7(1579)年、三木城攻めの陣中で病死するが、その後も官兵衛、長政はその恩を忘れず、半兵衛の嫡子重門の二男重次を家臣として召し抱えたという。有岡城、御着(ごちゃく)城、三木城、そして英賀(あが)城を次々と攻め落とした秀吉は、天正8(1580)年、播磨を平定。官兵衛の勧めで姫路に三層の天守を建て始めるとともに、官兵衛にはその功を称え、揖東(いっとう)郡1万石を与えた。そして、いよいよ毛利攻めに着手することになる。
第7回 幽閉
有岡城

有岡城跡

天正6(1578)年10月、有岡城主・荒木村重と小寺政職が信長に背いたという知らせが入った。官兵衛はただちに政職のもとへ出向き、説得を試みる。政職は村重が信長方につくなら自分もそうしよう、と言って村重のもとへ官兵衛を送り出す。
しかし政職はすでに官兵衛の処分を頼む密書を村重に出しており、官兵衛は捕えられ地下にある土牢に幽閉された。有岡城は総攻撃を受けて翌年10月落城。救出された官兵衛は1年という牢暮らしで半死半生のありさまだったという。
この際、官兵衛が有馬温泉で湯治をして弱った体を癒やしたと伝えられている。
第6回 三木の干殺し
三木合戦図

三木合戦図

別所長治公辞世の碑_三木城の天守台跡

別所長治公辞世の碑_三木城の天守台跡

天正6(1578)年、三木城主・別所長治が反旗を翻す事件が起こる。三木の「干殺し」として名高い三木合戦だ。播磨の諸城主がこの反旗に同調し、危機に陥った秀吉は官兵衛の進言により、書写山に本営を移したという。この戦いは実質的には兵糧攻めで、餓死するものが続出。天正8(1580)年1月、別所長治が自刃して開城した。この三木合戦において前哨戦以後、黒田官兵衛の活躍はない。別所氏に同調した有岡城主・荒木村重を説得しようとした官兵衛は伊丹・有岡城で幽閉されていたのである。
第5回 姫路城献上
国府山城址

国府山城址

国府山山頂からの眺め

国府山山頂からの眺め

黒田官兵衛と羽柴(豊臣)秀吉にまつわるエピソードでよく知られる、官兵衛による姫路城献上。秀吉に姫路城を拠点とするよう提案すると、官兵衛は妻鹿にある国府山(こうやま)城へと移る。この居城は官兵衛の父・職隆(もとたか)が築いたとされ、播磨灘を一望、播磨平野を見渡せる。また、のろしを上げれば姫路城へ連絡することもできる場所。職隆はその後もここで過ごし、62歳で亡くなった後はこの地に葬られた。 城跡の残る山を下りれば、妻鹿(めが)の住宅地の中に「筑前さん」の名で親しまれる黒田職隆廟所(びょうしょ)が残っている。
第4回 室津・八朔(はっさく)の雛(ひな)祭り
室山城跡

室山城跡

鶏籠山龍野古城跡

鶏籠山龍野古城跡

青山古戦場

青山古戦場

永禄9(1566)年1月11日、室山城で浦上政宗の息子清宗の婚礼の日、龍野城主赤松政秀の急襲に逢い、奮戦むなしく親子、花嫁ともども討ち死にするという悲劇が起こった。この花嫁こそが黒田官兵衛の妹であった。 その後、官兵衛は永禄12(1569)年、姫路に攻め入った赤松政秀の軍勢を二度にわたって撃退。青山の合戦でその名を挙げるのである。室津では、非業の死を遂げた花嫁の鎮魂のために、雛祭りを延期するようになった。 これが旧暦の八朔(8月1日)に行われる八朔の雛祭りなのである。

1月12日(日)、1月19日(日)に放送された大河ドラマの中のエピソードで紹介されました。

  • 婚礼の日に花嫁ともども討ち死にする室山城(室津城)跡。
  • 急襲を仕掛けた赤松氏が城主を務めていた龍野城跡

2月2日(日)に放送された大河ドラマの「官兵衛紀行」コーナーでゆかりの地として紹介されました。

  • 龍野古城跡
  • 鶏籠山

第3回 英賀合戦
3_英賀城跡

英賀城跡公園

英賀(あが)合戦は、小寺政職(まさもと)が織田信長に味方したことが毛利輝元の知るところとなって始まります。天正4(1576)年、毛利軍は浦宗勝を総大将に5000の軍勢でやってきます。上陸したのは英賀。迎え撃つのは官兵衛率いる500の軍勢です。多勢に無勢の状況の中、官兵衛がとった策は近くの山に農民を潜ませ大量の軍旗を持たせるというもの。さらに、500の兵で奇襲を仕掛けたのだから、毛利軍はパニック状態に陥り敗走、退却させることに成功しました。信長は大いに喜び、荒木村重を通じて感状を与えたと伝えられています。しかし、信長についてはみたものの、小寺家をはじめ播磨勢は毛利氏に心が残ります。官兵衛は、信長従属の有利を説き続け、自らは嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)を人質として信長の下に差しだし忠誠を誓うのです。
第2回 織田か、毛利か
英賀城本丸跡

英賀城本丸跡

御着城址

御着城址

永禄11(1568)年のこと、足利義昭と上洛を果たした織田信長は畿内を制圧。このとき播磨全体がひとまず信長の支配下に入りました。しかし、中国地方を支配する毛利勢と信長の対立があらわになると、間にはさまれた播磨は大きく動揺し、いずれにつくかで大きくもめることになります。 天正3(1575)年、小寺政職(まさもと)は官兵衛をはじめとする重臣を御着(ごちゃく)城に集結。「織田か、毛利か」を論じさせます。家中の大半が毛利につくことを主張する中、官兵衛は主君を説き伏せ信長につくことを決定させました。官兵衛は使者として岐阜へ向かい、羽柴秀吉の力添えを頼むと信長に謁見。小寺家一統の全面協力を約束しました。喜んだ信長がこのとき官兵衛に与えたのが、今は国宝となっている「圧切(へしきり)の名刀(福岡市博物館蔵)」だと言われています。 小寺氏が信長についたことが毛利氏に知られたことで、播磨の争乱へとつながっていきます。はじまりは英賀(あが)城の攻防。天正4(1576)年のことでした。

1月16日(日)に放送された大河ドラマのエピソードで紹介されました。

  • 「織田か、毛利か」を論じた御着城。

第1回 播磨にやってきた黒田氏

黒田氏はそのルーツを近江に持つと言われ、備前福岡(現・岡山県瀬戸内市)を経て黒田官兵衛の祖父黒田重隆の代に播磨にやってきました。当時の播磨は守護職である赤松氏が衰退し、その支族や旧臣である浦上氏、小寺氏、別所氏などが割拠し、近隣武将同士での戦いが展開されていました。 重隆は龍野の赤松政秀に仕えた後、御着を拠点とする小寺氏に身を寄せます。商才もあり軍事の才能もあった重隆と息子の職隆(もとたか)は、たちまち認められて姫路の出城を任されるようになりました。 そこで生まれたのが官兵衛です。天文15(1546)年。幼名は万吉。姫路城で生まれた唯一の姫路城主と言われています。このとき織田信長は12歳。官兵衛と信長が出会うのは天正3(1575)年のことになります。