黒田官兵衛と播磨

播磨から観る黒田官兵衛とは
第2回 織田か、毛利か
英賀城本丸跡

英賀城本丸跡

御着城址

御着城址

永禄11(1568)年のこと、足利義昭と上洛を果たした織田信長は畿内を制圧。このとき播磨全体がひとまず信長の支配下に入りました。しかし、中国地方を支配する毛利勢と信長の対立があらわになると、間にはさまれた播磨は大きく動揺し、いずれにつくかで大きくもめることになります。 天正3(1575)年、小寺政職(まさもと)は官兵衛をはじめとする重臣を御着(ごちゃく)城に集結。「織田か、毛利か」を論じさせます。家中の大半が毛利につくことを主張する中、官兵衛は主君を説き伏せ信長につくことを決定させました。官兵衛は使者として岐阜へ向かい、羽柴秀吉の力添えを頼むと信長に謁見。小寺家一統の全面協力を約束しました。喜んだ信長がこのとき官兵衛に与えたのが、今は国宝となっている「圧切(へしきり)の名刀(福岡市博物館蔵)」だと言われています。 小寺氏が信長についたことが毛利氏に知られたことで、播磨の争乱へとつながっていきます。はじまりは英賀(あが)城の攻防。天正4(1576)年のことでした。

1月16日(日)に放送された大河ドラマのエピソードで紹介されました。

  • 「織田か、毛利か」を論じた御着城。