黒田官兵衛と播磨

播磨から観る黒田官兵衛とは
第9回 中国大返し
本能寺

本能寺

本能寺跡

本能寺跡

播磨を平定した羽柴秀吉は、1582(天正10)年、中国地方へと出発した。攻めるは備中・高松城(岡山県)。しかし、この城は「中国一の名城」であり、容易に攻め落とすことができなかったため、官兵衛の進言により、石を積んだ船を沈めて川をせき止め、水攻めにした。この水攻めの最中、本能寺(京都府)で織田信長が明智光秀に討たれるという事件が起こる。官兵衛は秀吉に「光秀を討った者こそ、次の天下にいちばん近い者となるでしょう」と進言。200㎞の道のりを7日で駆け抜け、山崎の戦いで光秀を撃破する。これが世にいう「中国大返し」である。秀吉は、この官兵衛の進言による行動で天下統一への足掛かりをつかむのだった。

7月13日(日)に放送された大河ドラマの「官兵衛紀行」コーナーでゆかりの地として紹介されました。

  • 本能寺
  • 本能寺跡